【写真】味がありすぎるパンフレット (C) MMAPLANET
国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第24弾はMMAPLANET夜明け前のイベントプログラム・シリーズ……その第3回として1998年8月22日、USWF(Unified Shoot Wrestling Federation)のパンフレットを捲ってみたい。
USWFは1997年8月にテキサス州アマリロに旗揚げされた格闘技団体で、純然たるMMAではなく試合タイムは15分✖1R、掌底、ロープエスケープが1度認められたシュートレスリングのプロモーションだった。
シュートレスリングといえば修斗の中村頼永氏が、米国に渡った際シューティングでは射撃や撮影を意味するので用いた名称と同じだが、修斗とは全く関係ない。ただし、中村氏がシュートレスリングをカールゴッチ由来のレスリングとして名付けたのであれば、このリアルなプロレスという意味合いでUSWFも関係しているともいえる。
USWFはUインターにも来日したことがあるスティーブ・ネルソンが興したプロモーションで、彼の父はプロレス界でシューターとして鳴らしたゴードン・ネルソン。父ネルソンは1960年代に英国で活躍し、その間に対戦相手でもあったビリー・ジョイスやビル・ロビンソンというランカシャーレスリングの担い手とも交流があったという。
息子ネルソンはテキサス州アマリロで育ち、フォークスタイルレスリングやサンボで活躍しながらシュートレスラーとして成長していた。そして米国MMAの黎明期にWorld Combat ChampionshipやExtreme Fightingに出場、後者でハウフ・グレイシーのRNCで落とされている。
本職は小学校の体育教師で、キッズ・レスリングの指導者でもあったネルソンは、米国では数少ないプロレスの流儀を理解してリアルなファイトをプロモートした人間だ。It’s RealというUインターの海外でのうたい文句を流用し、桜庭和志がPRIDEで頭角を表すやUインターで桜庭のデビュー戦で勝利したことを自らのイベントの喧伝に活用、旗揚げ大会に関してはフェイクファイトも混ざっていた。
ただし、このようなファジーな格闘技観は米国の方が浸透させるのは難しいのか、ガチで戦わせるほうが楽にマッチメイクできるのか、ネルソンは上記のようなルールを設定してリアルファイトだけを提供するようになった。
そんなUSWFではいち早く65キロや70キロの試合を組んでいたこともあり、サステインの坂本一弘代表が現地視察を行い、改めて修斗とシュートレスリングの交流が始まる。ちなみにUSWFからは後のUFC世界ミドル級王者エヴァン・タナーや、ポール・ジョーンズ、フランク・トリッグなどがMMAでも活躍するようになる。
ネルソン自身もVTJに来日して中尾受太郎の三角絞めに屈してなお、グレイシーへのリベンジへの熱だけは冷めることなく、ついにはMMAとしては変則的ルールとしかいいようがない自らの庭にハウフを引きずり出すことに成功した。屋内でありながら土埃が舞うロデオ会場=アマリロ・フェアグラウンズ・ビッグロデオ・コロシアムで、ネルソンは自らの引退試合として勝者2万ドル総取りマッチを組み、ホームの利を十分に生かしてハウフを迎え撃った。
大会のパンフにはシュートレスリングについて、日本で野球と相撲に次いで3番目に人気のあるスポーツとして紹介するなど、本職は高校の教師とは思えぬ玉石混交ぶりを発揮しているが、ハウフとの再戦は今見てもエキサイティングなベストバウトとなった。
試合開始早々にネルソンはテイクダウンからパス、マウントを許して背中を見せるとロープエスケープ。あとがなくなったネルソンは、続いてマウントを取られると防御に徹し、ブレイクを得る。圧倒的に優位な状態でのリスタートに、ハウフは感情が揺さぶられスタミナを急激に失っていった。
地元のファンの爆発的なサポートを背に、ネルソンはテイクダウンを決め、2度に渡り三角絞めを凌ぐとついにはマウントを取ることに成功した。シュートレスラーがグレイシーからマウント奪取、間違いなく彼の格闘家人生のハイライトとなった。
その後、足を戻したハウフがガードからの腕十字でタップを奪い、ネルソンは米国のグレイシーハンターとなることはなかったが、一遍の未練もなくリングを下り、プロモーター業に専念した。
その3年後にUSWFをタナーに譲ったネルソンの足跡を、メインストリームを闊歩する米国MMA界で辿ることはほぼない。
スティーブ・ネルソンは遅めの結婚をして、奥方のファミリービジネスでもあったジャパニーズ・レストランをアマリロの地で切り盛りしている。