【写真】非常に礼儀正しく、試合度胸は満点。その理由が分かった (C) MMAPLANET
4月17日に行われたRoad to ONEで祖根寿麻をニンジャ・チョークで破った後藤丈治。パンクラスの地方大会、そしてプレリミが主な活躍の舞台だったファイターが、修斗でベルトを巻いた選手に圧勝した。
「こういう選手の声が聞きたい。それがメディアの役割」という青木真也からのリクエストもあった。あれから1カ月半が過ぎてしまったが、そのMMAファイターとしての成り立ちを後藤に尋ねると──まだ24歳ながら波乱万丈なMMAファイター人生を送ってきたことが分かった。
──青木選手から後藤選手の声を届けるのがメディアの役割という宿題を頂いてから、時間が経ってしまい申し訳ありませんでした。
「いえ、青木さんにああいう風に言ってもらえたのは凄く嬉しかったです。上京した時からAOKI AWARDとか、青木さん絡みモノに取り上げられることを目標にしていたので」
──青木真也にそうまで言わしめたのが、4月17日のRoad to ONE02の祖根寿麻戦の一本勝ちでした。修斗で環太平洋王者だった選手に勝った、その事実をどのように捉えていましたか。
「あの試合は自分にとってはオイシイ試合でした。新型コロナ感染拡大というなかで、これからどうなるのか分からないという状況に皆がいましたけど、しっかりと集中して取り組むことができて良かったです。
祖根選手にとってはメリットのない試合で、『自分なんかとやってくれるんだ』という気持ちでした。その一方で、自分にも勝つ可能性があるから組んでもらえているんだと理解して、修斗とかパンクラスとか関係なくバチっと倒して勝ちたいと思っていました。
状況が状況だったので、ああいう試合が組まれたのでしょうし……不謹慎な考えかもしれないですけどね」
──不謹慎という言葉が出るということは、あの日時で戦うことに躊躇することがあったということでしょうか。
「あの時はコロナが今より未知で、コロナとの戦いだという気もしていました。こんな時に試合をして良いのかということが頭をよぎったのも事実です。ただし、主催者も徹底して対策し、ジムも同じでした。だから、そこを信じて『やるか!!』という気にさせてもらいました」
──『俺は掛からねぇよ』という気持ちではなかったですか。
「それはないです。そんな風には思えないです」
──良かったです。そこを弁えてもらえないと、こちらも試合があるからといって取り上げることはできないので。
「そうなりますよね。コロナは現実問題で、まだ解決していないわけですから。リスクがあることをやっているのは、理解しているつもりです」
──その言葉で、後藤選手がどういう人物であるのか、ファンにも伝わるかと思います。もともとは札幌のP’sLAB札幌所属で北海道のパンクラスでキャリアを積んできた後藤選手ですが、MMAを始めたきっかけは何だったのでしょうか。
「僕……実は地下格出身なんです……」
──……。
「高校生1年生の時に、町の体育館にあったボクシング室のようなところでパンチもキックも組み技も全部やっている練習を目にして。たまたま、そこで総合格闘技を初めて知ったんです。サークルのようなモノだったのですが、そこで練習をするようになりました」
──そこが地下格に関係していたと?
「ハイ、けっこう怖そうな人たちが集まって練習していました(笑)。僕はただの高校生で、UFCをゲームで知っていたぐらいで……本当にMMAのことは分かっていなかったんです」
──普通の高校生で、地下格からMMAを!! そこではどのような練習が行われていたのですか。
「グローブをつけて殴り合うとか……そこを仕切っていた人が連れていた人間とスパーリングをしたりとか(苦笑)。だいたい連れて来られるのは、ただの不良なんです」
──ダハハハハ。凄い世界ですねぇ。後藤選手には格闘技経験はあったのですか。
「小学生の時に少し空手をやっていました。硬式空手だったのですが、3年ほど稽古していました。でも道場が途中でなくなってしまって……。中学は卓球部に入って」
──いきなり卓球だったわけですね。その頃にMMAの知識は?
「全然なかったです。でも戦うことには憧れはありました。中学の時も週に1日ほど体育館でボクシングの真似事をしたり、高校になってからは部員は3人ほどで顧問のいない柔道部に所属していました。で、体育館でミット打ちをしようと思って訪れて、地下格の練習を見たという感じです。あの時は僕も素人のようなモノでした」
──不良を連れてきて、スパーリングをするって普通じゃないと思わなかったですか(笑)。
「何が普通か分かっていなかったです。アウトサイダーが世界最高峰ぐらいのイメージでいたので(笑)。建築業をしている代表は90キロぐらいある大きな人だったので、スパーリングでボコボコにされていました」
──そのような練習はどれぐらい続けていたのですか。
「16歳から18歳までですね」
──体重に関係なく、殴り合う……怪我とかしませんでしたか。
「ちょっと痛いとかは、普通でした。目の周りが腫れたり、鼻血が出るというのも」
──ご家族の反応は?
「それはやはり『大丈夫なの?』とは、言われていました。試合も1週間前ぐらいに『お前、出ろ』みたいな感じで伝えられて(笑)」
──実際に試合も出ていたのですね……高校生で……。
「もう『出るか?』ではなくて、『出ろ』という世界でした。そうしたら、相手が全身お絵かきみたいな相手で。ルールもパウンド有りで、会場は地下のクラブに四角形の柵を立ててコンクリートの床の上に薄いジョイントマットみたいなのが敷かれているだけで……あれはただの高校生には怖かったです(笑)」
──それはそうですが……続けていたわけですよね。
「地下格の試合は5、6試合ほど出て1度だけ負けました」
──ちなみにどういう勝ち方をしていたのですか。
「デビュー戦は『TOUGH』を読んだ後で、掌底が恰好良いなかって思って……掌底で勝ちました。MMAグローブをつけていたのですが、掌底を使いました(笑)。あの時に戦って勝つことの興奮を覚えてしまったんです」
──いやぁ、後藤選手……十分にイっている高校生ですね(笑)。
「アハハハ。学校では試合に出ているとか言っていなかったので、ケガして入院とかすると友達から『丈治君、どうした?』とか心配されていました(笑)。先生から『後藤、お前何をやっているんだ』と言われたこともありましたね(笑)」
──入院まですると、さすがにご家族からストップは掛からなかったですか。
「親は『あんた、ケガだけはすんじゃないよ』って」
──いや、だって入院しているじゃないですか(笑)。
「アハハ。自分でも変なことやっているなとは思うようになっていましたね。ただ途中からブラジリアン柔術の経験がある方が指導するようになって、寝技も少しやってはいたんです」
──それでも普通にMMAをやろうとは思わなかった?
「当時はパンクラスも修斗も知らなかったので。試合に出た時も、ここで勝てば『○○○○〇』に出られるかもしれないからって言われて。〇〇〇〇〇が何のことかも分かっていなかったですけど、勝てばプロになれるんだって思っていたぐらいで」
──今からして、地下格で学べたことはありますか。
「学べたことというか……あの環境があったから、今がどれだけ有難いかが理解できます。それと試合に出ることにためらわない気持ちは養われましたね(笑)」
──そんなことを無償でやるのですからね。
「いや……それが、お金は貰えていたんです。1試合で5万とか出たこともありました。高校生にとっては大きな額でした。そんな時に地下格をキックボクシングアカデミー札幌の代表が見に来ていて、『ウチで練習しないか』と誘われてキックのジムに通うようになったんです。やりたいのはMMAだったのですが、練習はキックで(笑)」
──それは高校生の時ですか。
「高校を卒業して、浪人をしている時ですね。で大学に合格してからキックのジムに入会しました」
──ちなみに勉学の方はどのような専攻をしていたのですか。
「一応、北海道大学というところで経済学部を学んでいました」
──ほ、北大。中井祐樹さんの後輩じゃないですか。後藤選手、5教科7科目の男でセンター試験を経ているのですね……。いやぁ、随分と気が狂っていますよ(笑)。
「アハハハハ」
──ところでキックのジムに移る時に、怖い方々はすんなりと了承してくれたのでしょうか。
「それはもう全く問題なかったです。代表は『お前、やるからには上にいけよ』って言ってくれて。今でも『元気つけろ』ってジンギスカンとか送ってきてくれるんです。昔は相当に腕が立つってことで名前も知れていたようですが、練習中はガンガンやっても、凄く面倒見の良い方でした。何よりやっていた楽しかったので、僕はあそこで練習を続けていたんです」
──うわぁ、めっちゃ良い話に聞こえてきました。
「僕は今でも感謝していますし、代表も凄く応援してくれています。『東京に行って、飯とか困っていないか』っていう感じで応援してくれています」
<この項、続く>