全国に3万人以上いると言われているブラジリアン柔術愛好家の皆さんと、そのファンのみなさん。こんにちは ブラジリアン柔術をやっている55歳 のぶあきです。
今回はブラジリアン柔術の歴史と言うことでお話をさせて頂きます。
高度に単純化した簡単なおはなしになっております。
次回第2部はブラジリアン柔術のルールについて、これも細かいところは無視する予定ですそして第3回は実践編という3部構成でのお話を予定しております。
それと、私のはなしはもっともらしい嘘が時折混ざりますので気をつけてください。
おかしいなとおもったら即ググってくださいね。
え~まずはブラジリアン柔術の歴史ですが、ん~ブラジリアンの前に 柔術とはなんだ?
ですかね。
柔術がいつからあるのっていうのをたどって行くと戦国時代までさかのぼるンじゃないかって事を聞いた事があります。
戦国時代の合戦は集団で長い槍で刺すというより上から振り下ろしてたたき合ってたと言われています。そうゆうなかで槍が折れたらかたな 刀がきれなくなったり失ったりしたら、最終的にはとっくみあいみたいな感じになってたんじゃないか、その技術が発展したのが柔術なんじゃないかと 自分で勝手に思っています。
戦国時代が終わり、平和名世の中になると、武士のたしなみとして、護身術としての習い事みたいな感じで発展していきました。そんな中で出てきた技が下からの三角締めです
(これは嘘です)英語ではトライアングルチョークと言います まさに三角です。
話がそれてきましたが、新撰組の4番隊組長の まつばらちゅうじ と言うかたが柔術の達人で新撰組の柔術示範だったそうです。
え~ここまで思いっきりショートカットした、戦国時代から幕末までの柔術の歴史でした。と言うことで
ここまで、合戦でのとっくみあいの技術から発展し、戦闘術や護身術になったんじゃないかなと言う話をざっくりしました。さて明治になり柔術はどうなったか、というとこですが、明治時代 文明開化です。幕藩体制が崩壊し仇討ちなどの決闘が禁止され剣術や柔術などの武術の存在意義が問われ出したなか 柔術は廃れていったというのが定説となっていますが、地方の村落で娯楽として行われていたとの文献もあるそうです。そんな中現れるのが、柔道です。
柔道は加納治五郎先生が柔術の諸派の技を系統化し投げ技を中心とした競技にしました。
場合によっては死んだり 怪我したり危険だった柔術が安全な格闘スポーツになったわけです。
ここからがブラジリアン柔術の歴史になるわけですが、明治11年 青森県中津軽村に前田光世が生まれます。前田光世先生は少年期より腕っ節が強く明治27年青森県尋常中学で柔術をまなび、その後上京 早稲田中学に編入しました。その時に講道館柔道に出会い入門。
東京専門学校(現在の早稲田大学)へ進学します。在学中に3段をとり各地で柔道を指導するほどに頭角をあらわし、この頃講道館三羽がらすと呼ばれていたらしいです。
そんな前田光世先生が柔道を世界に広めるために、柔道4段だった1904年に柔道使節として渡米します。アメリカで前田光世先生は柔道を広めるため異種格闘技戦を行い、メキシコ、ヨーロッパなどで2000勝以上 道着を着た対戦では無敗だったそうです。
イベリア半島に滞在している頃から コンデコマのリングネームを使用していて、本名より有名だったとの事。コンデとは伯爵を意味しているそうです。
そして1914年 前田先生はブラジルに渡ります。それから 連戦連勝を重ね1916年~1917年までイギリス~フランスなどヨーロッパを旅をして1917年に再びブラジルへこの年結婚しています。妻と子供は2年ほどで亡くなったとの事でず。
この年当時14歳のカルロスグレイシーが前田光世先生の実演をみて弟子になることを決意
そしてカルロスの弟のエリオグレーシーとともにグレーシー柔術を創設するに至りました。
この前田光世先生がグレーシー一族に教えた柔術が、ブラジルで発展し競技化したものがブラジリアン柔術なんですね。
ということで、ラペラチョークやります。
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